頬杖のココロの奥

気がついたら頬杖を付いている私が斜め上を見ながらぼやく日々

富田メモに思う

先月、この「富田メモ」を扱った靖国論の放送をみていて、とても理解するに

壁が高いことに辟易しています。
やはり偽物だろうか・・・というところに行き着くわけですが。
宮内庁次長が陛下の言葉をメモし、それも古い手帳に新しめの紙。
昭和天皇東条英機へのご信頼は厚いものであったから
A級が合祀され・・というのは不快感はないかと。
ただ大嫌いである元外務大臣松岡洋右と駐イタリア大使の白鳥敏夫までもが
合祀されたのはどうやら「ご不快」のようで。
ただし、メモのどこにも「不快感」とはない。まぁ感じ取るのは簡単だけど・・



私は或る時に、A級が合祀され
その上 松岡、白取までもが
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか
易々と
松平は平和に強い考えがあったと思うのに
親の心子知らずと思っている
だから 私あれ以来参拝していない
それが私の心だ


ウィキからの情報によると
筑波は1966年に旧厚生省からA級戦犯祭神名票を受け取りながら合祀しなかった靖国神社宮司筑波藤麿とみられる、とか。
この筑波氏と終戦直後の最後の宮内相の松平慶民は戦犯を合祀することを慎重に考え、ずっとそのままにしておいたものの、松平の長男で1978年にA級戦犯を合祀した当時の靖国神社宮司松平永芳のことらしい。
ずっと合祀が決まりながらもB・C級(被害者)戦犯と違い、いわゆるA級戦犯だからと合祀を様子見していた筑波宮司のあと、松平永芳はポンと合祀してしまったことと、その中に大嫌いな「松岡・白鳥」が含まれていたので、もう行けなくなってしまったということなんだろうと思う。
親の心子知らず・・かぁ。
宮司はこの問題を慎重に取り扱いしていて、松平永芳宮司にしたら以前から棚上げ事案だったから、合祀しちゃったんだろうな。
戦時中から戦後処理後の日本の国民の耐え難い現実をを陛下はずっと背負い、庶民が思うよりずっと戦時の罪を心に背負われていただろう昭和天皇だからこそ、東條はじめとするいわゆるA級戦犯の扱いを慎重に考えられていたというのは容易にわかる。
彼らをこうして欲しいという陛下の言葉はない。政治利用になってしまうから意見自体は言えないであろう。
それこそ内密で「自分の気持はこうありたい」というものがあれば・・仰られるわけないか。
メモが本物だとしたら、A級や嫌いな奴らを易易と合祀してしまい、敗戦国として形上でもこれで靖国に行けなくしてしまいやがった・・というのが私の理解かな。
東條初めいわゆるA級戦犯が嫌いなわけではなく、その人々を合祀したことが陛下の心情に波風を立ててしまったんだろうな。
合祀の問題は難しすぎる、裁判も含めてあまりに難しすぎる。
だって、あらゆることを受け入れるということで、ポツダム宣言を受託したのだから。。
ああ、難しい。